放牧中

もはや見えぬ光よ かつて私の物だった光よ もう一度私を照らしてくれ

『BLUE REFLECTION RAY/澪』全話見た

この日々は悲しい事ばかりで 誰かを傷つけ傷つきはしない様に
そう日々は正しい事ばかりで 正しい理不尽に飲み込まれていく*1

時に2021年。
8月中旬、とあるYouTuberの優生思想じみた発言が波紋を呼んだ。
9月中旬、「親ガチャ」という不穏な単語が話題になった。

4月から2クールに渡って放送された『BLUE REFLECTION RAY/澪』は、この息苦しい時代を切り取ったかのような作品だった。

一匹の亡霊が日本を徘徊している、自己責任論という亡霊が。

「自分が変われば世界は変わる」「努力はすべて報われる」のような、自己啓発を模した自己責任論は社会に根づいた。この自己責任社会において、社会問題などというものは存在せず、、、、、、、、、、、、、、、、すべて弱者/敗者/患者個人の問題へと矮小化される。
イギリスの批評家、マーク・フィッシャーは『資本主義リアリズム』にこう記した。

精神障害にあらゆる社会的な要因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害[にまつわる認識]を化学・生物学化していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している。*2

作中で自分の〈想い〉に悩む少女たちは、精神科・心療内科に通院する患者が服薬するように、楽になるために〈想い〉を抜いてもらおうとする。

しかし、〈想い〉を抜かれた少女たちは、やがて昏睡状態に陥ってしまう。とはいえ、平原陽桜莉や羽成瑠夏(そして、かつての平原美弦)のように苦しむ少女の〈想い〉を守ろうとすることもまた、作中でも「その場しのぎ」の偽善と指摘される。
〈想い〉を抜く。〈想い〉を守る。
どちらもミクロな処方箋であって、マクロな解決策ではない。崖から落ちそうな子どもを捕まえる仕事は、その崖から落ちそうな子どもしか救うことができないように。

リフレクターは暴走した〈想い〉、フラグメントを鎮めることができる。
だけど、それは一時的なものに過ぎない。
暴走した原因を排除しない限り、少女たちの苦しみは繰り返されていく。
(中略)
理不尽な目に遭い、苦しむ少女を大人たちは見て見ぬ振りをした。
けどそれは、何もできずにいた私も同じ。
リフレクターは、誰も守ることができない*3

だから美弦たちは「少女たちが苦しまずに済む世界」を築こうとする。
だが、世界を変えるために他人の大切な〈想い〉を奪うことは、テロリズムでしかなく、そのように振るわれる暴力は、ヴァルター・ベンヤミンが「暴力批判論」において「法措定的暴力」と記したそのものだ。

その法措定的暴力こそ、――高額の納税を盾に早口で喚き散らす幼稚な優生思想や、親ガチャという露悪的な嘆きに上から目線で説く綺麗事のように――犠牲と服従、そして現状維持を強いる「法維持的暴力」と合わせて「神話的暴力」を構成し、私たちを苦しめているのではなかったか。

手段としての暴力はすべて、法を措定するか、あるいは法を維持する。*4

ベンヤミンは「神話的暴力には神的暴力が対立する」(p.59)と記した。神的暴力とは、法を破壊し、罪を取り去り、血の匂いのしないものだという。

陽桜莉と瑠夏は、仁菜や美弦、そして紫乃を受け入れることで、それを実践した。

この現実に足をつけ、親しい人を気にかける。
〈想い〉を繋げていく――それこそが、この世界を革命するための、たったひとつの冴えたやりかたなのだと思う。

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*1:ACCAMER「fluoresce」

*2:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』p.98

*3:『BLUE REFLECTION RAY/澪』12話「わたしに有罪宣告を」

*4:ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」,野村修編訳(『暴力批判論 他十編 ベンヤミンの仕事1』岩波文庫所収, p.45