劇場版『Wake Up, Girls! 七人のアイドル』を観て
雪の降る勾当台公園。
Wake Up, Girls!の最初で最後のライブの幕が上がる。
小さなステージに立つ島田真夢を目撃した大田/私は呟く。
「あれは……島田真夢じゃないか……!」
誰かを幸せにするということ。それには3つのタイプがあると思う。
世の中の多くの人を幸せにできる人。
自分の周りの身近な人を幸せにできる人。
それと、自分を幸せにできる人。
人生100年時代。
SDGs(持続可能な開発目標)。
新しい生活様式。
この社会は綺麗事で溢れている。
ときには「#」を添えて綺麗事をシェアする。
人間は「世の中の多くの人を幸せにできる」ことを求められる。
実際、多くの就活生は「人の役に立つ」ことを軸に就職活動を行う。
『Wake Up, Girls!』に登場するアイドルグループ、I-1club。
「休まない、愚痴らない、考えない、いつも感謝」というブラック企業の社訓のような心構えが象徴するように、I-1clubはそんな資本主義社会のカリカチュアだ。
表では綺麗事を謳いつつ、その裏ではすり減った部品が脱落していく。
この社会で、人間は代替可能な存在でしかない。
「かけがえのない存在」なんてありえない。
だからこそ、島田真夢はI-1clubを抜けた。しかし、グループの人気は落ちなかった。
そういうものだ。
そして、島田真夢はWake Up, Girls!に加入する。
自分は代替可能な存在ではないと証明するために。
自分を幸せにするために。
『アイドル用語辞典』(未完)
愚か者:あなたと同じ考えを持たないひとのこと。
ギュスターヴ・フローベール『紋切型辞典』
アイドル:自分の「全て」に複数人から期待されることに覚悟のある異常者。あるいは、それに気付かなかった馬鹿。
推し変:他人に失望したにも関わらず、それに懲りずに別の誰かに「今度こそは」と過度で淡い期待を寄せる不毛なくり返し。
カリスマ性:なんの才能もない場合にあてがわれる才能。
クソ席:ステージが見えづらい席。こちらが見えづらいことが問題なのに、ステージに立つアイドルの「後ろの方もちゃんと見えてるからね」という言葉で誤魔化される。
グッズ:「自分はファンだ」と証明するために義務感で買う不用品。多ければ多いほど証拠になるが、枚挙的帰納法でしかなく、ゆえにファンであることは証明できない。
結婚:かつてはアイドルをやめるときに使う手段だったが、今では祝福する真のファンとそれ以外とを区別する判断材料になった。
真のファン:存在しない。気に食わないファンを非難するときに使う。
接近戦:一度目は名前を覚えてもらうためのアピール。二度目以降は名前を忘れられていないかの確認作業。
人柄がいい:自分が不快にならない言動をするアイドルに対しての好意的な評価。
ファン:他人に過度な期待をする残酷さから目を背ける人々。
プライベート:熱愛報道、不倫、結婚、離婚などの恋愛に関する私生活についての追及を批判するために用いられる。「犯罪じゃないんだから」などが併せて使われることが多い。
『22/7』感想 あるいは、秋元康は自分が支配者であることを自覚しているのか
君は君らしく 生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
初めからそう諦めてしまったら
僕らは何のために生まれたのか
欅坂46の代表曲、『サイレントマジョリティー』。
いい歌詞だ。
それを書いているのが秋元康だということから目を背ければ、の話だが。
大人からの支配に抗う少女たちに寄り添おうとする素振りを見せる秋元康。
だが、彼は少女たちの理解者ではない。
支配者だ。
おニャン子クラブ、AKB48、乃木坂46。
数々の人気アイドルをプロデュースしてきた彼は、時代を作ってきたと言っても過言ではない。
秋元康は権力者以外のなにものでもない。
『サイレントマジョリティー』を、『不協和音』を歌う欅坂46。
ファンにとって、それは輝かしいステージだろう。
しかし、秋元康が歌わせていることに気付くと、歌って踊るアイドルたちは滑稽な人形劇の操り人形にしか見えない。
権力者が歯向かう術を持たない少女たちに大人たちの支配への抵抗を歌わせているだけだ。
――秋元康は支配者でありながら、その権力の大きさに無自覚なのではないか。
このことは数年前から指摘されてきた。*1
1月から3月までの間、『22/7』が放映された。
数年前から活動していた秋元康プロデュースのデジタル声優アイドルグループの念願のアニメーションだ。
企画発表当初から、キャラクターデザイン原案を堀口悠紀子やカントク、深崎暮人などの名のあるイラストレーターたちが担当だったことで注目を集めていた。
簡単にあらすじを説明する。
謎の芸能事務所から怪しげな手紙が届いた8人の少女たち。
合田と名乗る大男に導かれた先は、地下施設と謎の"壁"。
"壁"から出される指示に従い、彼女たちはアイドルとして活動することになる。
アイドルをやりたいと思っていない滝川みうも例外ではなかった…。
誰がどう見ても、"壁"とは秋元康のことだ。
どのようにして"壁"=秋元康をぶっ壊すのかに注目して視聴した。
様々な活動を通じて22/7に愛着を覚えた8人。
しかし、突如"壁"は解散を命令する。
みうたちも、合田たち大人も、"壁"の命令には誰も逆らえない。
しかたなく解散した彼女たちだったが、いつのまにか地下施設に集まっていた。
すると"壁"が22/7の目的を明かす。
すべては実験であり、もう22/7には用がない。
活動を続けられるように嘆願するも、"壁"は取り合おうとしない。
いきなりみうは壁に殴りかかる。
壊れた壁の先には、幼少期からの8人の写真が大量に貼ってある。
薄気味悪さを覚えながら、メンバーが更にその先に進むと、大勢のファンの待つステージに繋がっていた。
そして、8人は歌い出す。
ここまではそれなりに感動的だった。
前述したような秋元康の無自覚な支配や、劇中での22/7のファンが『トゥルーマン・ショー』でトゥルーマンを観ていた視聴者のようであることに目を背けられたのなら、なんとか耐えられた。
しかし、彼女たちが解散命令に歯向かうことすら筋書き通りであり、すべては"壁"の掌の上だったことが明かされる。
22/7の8人が主人公なら、このような描写にする必要はない。
みうたちと同様に"壁"の言いなりだった合田たちが、彼女らに感化されて舞台を用意する。
こちらの方が綺麗な終わり方だった。
そうしなかったのは、"壁"が主人公だったことに他ならない。
彼は自らの権力に無自覚な馬鹿ではなかった。
秋元康は支配者であることを自覚した上で、支配に抗おうとする少女を演出し、それを見世物にしていた。
これを邪悪と呼ばずして何と言おう。
秋元康プロデュースのアイドルを応援することは、秋元康の邪悪さから目を背けることと同義である。
操り人形の糸に気付かないふりをするのは、そろそろ辞めるべきだ。