放牧中

もはや見えぬ光よ かつて私の物だった光よ もう一度私を照らしてくれ

『天気の子』は「エヴァの呪縛」を乗り越えた

 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。

――創世記 28:12

『天気の子』はセカイ系であり、それでいてセカイ系を否定した作品である。

この主張は一見、矛盾している。しかし、その矛盾はセカイ系という言葉がWell-definedなものではないことに起因する。

正確に言うならばこうだろう。

『天気の子』はセカイ系――いわゆる、世界の命運を主人公とヒロインが握っている作品――であり、それでいてセカイ系――つまり、ヒロインの犠牲で世界が救われるような結末――を否定した作品である。

 

セカイ系について語るということは、エヴァについても言及しなければならない。一般的にセカイ系と言われる作品は、エヴァとの比較をされた後に、セカイ系というレッテルを貼られてきたからだ。庵野秀明は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』において「エヴァの呪縛」という言葉を用いた。そう、セカイ系とは「エヴァの呪縛」なのだ。

エヴァの呪縛」からの脱却を目指すのが、2020年6月公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』なのだろう。しかし、『Q』の前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で「エヴァの呪縛」からの脱却を試みていたことを確認しておきたい。

『破』の終盤、碇シンジは第十の使徒に取り込まれた綾波レイを救う。

僕がどうなったっていい……世界がどうなったっていい……だけど綾波は……せめて綾波だけは……絶対に助ける!

世界とヒロインとを天秤にかけ、ヒロインを選びとるシンジ。旧作にはない展開であり、「エヴァの呪縛」からの脱却を試みたことがうかがえる。しかし、その挑戦は『Q』において失敗に終わったことが発覚する。

 

『天気の子』に戻ろう。豪雨の続く東京。ヒロインの陽菜が人柱となることで天候が回復するが、「もう晴れなくていいから、陽菜に戻ってほしい」と主人公の帆高は、世界と陽菜とを天秤にかけ、後者を選ぶ。水没した東京で、帆高と陽菜は再会する。こうして『天気の子』は「エヴァの呪縛」を乗り越えた。

 

明るくない世界で、それでも生きていくことを提示したこの作品は、雲の隙間から差し込む光――天使の梯子のように、我々の未来を照らしている。

それでも、わたしたち……生きていかなくっちゃいけないんだね……

――『天使のいない12月』 より