放牧中

もはや見えぬ光よ かつて私の物だった光よ もう一度私を照らしてくれ

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想(ネタバレあり)

この一週間、ずっと宇多田ヒカルの「One Last Kiss」を聴いている。
イヤホンをつけて音楽を聴く行為は、どう考えても孤独になる手段だ。
実際、「旧世紀版」でS-DAT(シンジが音楽を聴いているアレ)はそういう役割を果たしていた。

他人との触れ合いを拒絶し、自分の殻に籠る。
傷つきたくないから、誰も求めない。
孤独を願い、他人を拒む。

シンジがS-DATを聴くことは、自閉することと同義だった。

しかし、『新劇場版』では違う。
『:序』から『:Q』までの『新劇場版』三作において、S-DATはマリに拾われ(壊されもする)、シンジに捨てられ、綾波に拾われ、カヲルが修理し、シンジに落とされ、アヤナミに拾われる。

『新劇場版』で、S-DATが象徴するのは「孤」ではなく「縁」だ。

『:Q』でカヲルを失い、フォースインパクトを起こしかけたシンジ。茫然自失の彼を立ち直らせたのは、S-DATを返しにきたアヤナミレイ(仮称)だった。

「みんな、碇君が好きだから」

村民との交流を通してアヤナミが牧歌的、宮崎・高畑的な第3村に馴染んでいくシークエンスには、顔が綻んでしまう。今作で総作監・キャラクターデザインなどを務める錦織敦史の手腕だろう。
「安らぎと自分の場所」はここにあったのか。

しかし、彼女は村で生きていくことができない。
さよなら、とS-DATを残してアヤナミはシンジの目の前で融ける。
ふたたび悲しい別れに直面しても、シンジは挫けずに父ゲンドウと向かい合うことを決意する。
泣き腫らした顔でヴンダーへの乗船を志願するシンジは、今ここで死なずに生きている私/あなただ。
誰かと一緒に生きることの大切さを知りながら、そうやって生きられなかった人を忘れられずに、私たちはこのクソみたいな現実を生きあがく。


Dパートのマイナス宇宙で描かれた若い頃のゲンドウの孤独な姿、傷つくことを恐れて他人を拒絶するその姿は、私たちがよく知っている「旧世紀版」のシンジにしか見えない。
そして「縁」の象徴は、ふたたびゲンドウのもとに渡る。
それは、父との絶縁を望んだシンジが捨てたS-DATだ。
レイが拾い、エントリープラグに持ち込んだS-DATだ。
最愛の妻を亡くした父が、母を失った子に渡したS-DATだ。

 

量産型vs弐号機戦のような血湧き肉躍るアクションはない。
『シン・』で描かれる初号機と第13号機の第3新東京市/教室/ミサトの部屋で行われる戦闘には、笑いを誘われる。

無への回帰を願った「甘き死よ、来たれ」は流れない。
『シン・』で流れるのは、忘れられない人を想った「VOYAGER ~日付のない墓標」であり「One Last Kiss」だ。

アスカの首を絞めないし、「気持ち悪い」とも言われない。
『シン・』では胸の大きいいい女がシンジの首のDSSチョーカーを外し、彼はエヴァから解放される。

「旧世紀版」は、絶望の果てに一縷の希望を見出した。
『新劇場版』は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』 は、冷たく突き放すわけでも熱っぽく諭すわけでもない。そこにあるのは純粋な「福音」だった。


決着がついてからもう一週間が経ったけれど、いまだに余韻に耽っている。引き摺っている、と表現するほうが適切かもしれない。
ヤシマ作戦の直前にレイが言った「さよなら」と今回のアヤナミの「さよなら」の違いを考えたり、シンジとリョウジ少年のツーショット写真を見つめるミサトさんの胸中を考えたり、マリの揺れるおっぱいのことを考えたり、今まで以上にズルい大人だった加持さんのことを考えたり、サクラの尻のことを考えたり、タイプの異なる優しさで塞ぎ込んだシンジを気にかけていたトウジとケンスケのことを考えたり、ピッチピチのプラグスーツ姿のアスカのことを考えたりしている。

まとまらないけれど、とりあえず。

さよなら、エヴァンゲリオン